「贋作我輩は猫である」―内田百
猫のアビシニアではなく、我が家の猫の後姿

内田百の「贋作我輩は猫である」を読みました。
漱石の「吾輩は猫である」の最後で、ビールに酔っ払って水瓶に落ちて死んだはずの我輩が、甕から這い出て生きていたという話で、贋作と言うよりは続編ですね。

我輩は、苦沙弥先生の家には戻らず、五沙弥と言う入道頭の家に迷い込んで、そこに居着いてしまい、アビシニアと言う立派な名前までもらいます。
この五沙弥先生は、ドイツ語の先生で、苦沙弥先生と違って、無類の酒好きで毎日のように、友人、教え子が遊びに来ては、酔っ払って、訳のわからない話をして帰る。それを猫のアビシニアが、あきれ返って見ているという趣向になっています。
この五沙弥先生は、もちろん百自身がモデルですが、その弟子達とのやり取りが、相当に可笑しい。丁度、落語の長屋の大家さんと、熊さん八さんの会話のようですが、大学教授と、卒業生だけに会話が高等なようで、ドイツ語が飛び交ったりする所が、妙に笑えてしまいます。

中に一編、金貸しの親父が来て、訳のわからないことを話して帰る話しがあります。これは、全く理解できない会話なのですが、実は後からその男が何年も前に死んだ男だと気が付く、と言う落ちがあって、いかにも百らしい怪奇譚になっています。百の話しには、シュールで不条理な所があるようです。

内田百は、漱石の最後の方の弟子ですが、文学者としての漱石に相当心酔していたようで、この小説も題材を借りているだけでなく、文章も漱石の影響を受けていることがよく解ります。
軽妙洒脱とは、このような文章を言うのだと思います。独特のユーモアがあって、読んで一拍おいてから笑いが込み上げて来るような、リズム感は、落語のような、日本の話芸の伝統を受け継いでいるような気がします。
Posted by kozyken
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